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住吉・住之江区の歴史

咲洲とWTCの遠景
 

WTCの全景

 仁徳天皇(第15代)は
  ”高き屋にのぼりて見れば煙たつ 民のかまどはにぎはひにけり”  (『新古今集和歌集』)
とよまれた。(上町台地より眺め、炊煙が盛んに立ち上っている。かまどは数多く賑わい、人民の暮らしは豊かであることを喜ばれたものと言われている。)

 この上町台地のすぐ下あたりまでが海面であり、反対側の生野区東成区のあたりは河内湖であったのであろう。爾来、秀吉や加賀屋甚兵衛、鴻池善右衛門など町衆が営々と干拓を進めた結果、現在の大阪の街が出現している。言うなれば大阪は海の上にできた街である。

  古来より進めてきた干拓事業を現在も続けている。その干拓でできた街は日本の総面積に占める割合が0.06%しかない。いかに狭い街なのか・・・。 
だから土地を新たに生み出すことを発展の原動力としてきたのだろう。今後、原動力となるのは「南港エリア」である。干拓でできた難波や梅田が大阪の中心と言われているように、今後は「咲洲や舞洲」が大阪の中心となる日がきっと来ると思う。

 「WTC」というランドマークに大阪府庁という行政機能が移転すると、これを中心として人や物を南港エリアに集める事ができる。南港は現在でも、先進国一国の経済規模を誇る近畿圏の物流拠点であり、これに政治と経済の機能を集中させることで、よりスケールメリットとネットワークメリットを享受することが可能となる。完成された南港の姿を一日も早く見られることを楽しみにしている。

 
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住吉大社

 

〔 住吉大社 (すみよしたいしゃ) 〕

地元では「すみよしさん」あるいは
「すみよっさん」と呼ばれている。
全国に分布する住吉神社の総本宮である。

 海の神である住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)と息長足姫命(神功皇后)を祀り、航海の神、祓いの神、歌の神として祀られ、正月の初詣には300万人の人が参拝されて賑わう。

  住吉大社は「住吉造り」と称される神社建築の古い形式(桧皮葺、妻入り造り)をもつ本殿や、600基余りの石灯籠と並んで反り橋(太鼓橋)が有名であろう。 石灯籠は、北海道松前から九州薩摩など近世の各種業界から奉納されたものであり、近世日本の商工業の活力の旺盛さを彷彿とさせるものである。東参道の門前には古来より「蟻の熊野詣」に使われた熊野街道が、また、西の参道の門前には紀州街道が通り、紀州和歌山や堺と大阪の中継点として商業活動が盛んになった。現在、阪堺電車の通るところが紀州街道であり、料理屋・土産物屋などが並び賑わっていたとされている。有名な弥次さん喜多さんも、住吉大社に参詣したおり、住吉警察署のところにあった料亭で大騒ぎしたとされている。

 住吉大社は文化芸能の中心でもあった。古くから和歌の神として崇敬され神前での歌合せや、歌会が催されると共に、歌枕として多くの歌に詠まれている。近世では井原西鶴が一定時間の間に、どれだけ多くの俳句が読めるかというパフォーマンス「大矢数俳諧」を催している。また、「住吉御文庫」では出版物の整理と保存を行う図書館として、学問の府としての機能を果たしている。 旧の紀州街道、現在の阪堺電車住吉大社鳥居前から見た西参道と太鼓橋の向こうに社殿があり、その向こうには百年千年の時の流れが見えるようである。  

 
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加賀屋新田会所跡

   

〔加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)〕

大阪市内唯一の新田会所跡
大阪市有形文化財・史跡に指定された。
(平成13年12月)

 現在の住之江区の大きな部分を占める地域に加賀屋といわれる地域があります。この加賀屋新田は大阪の両替商加賀屋甚兵衛によって開発されたもので、その足跡は大阪市の管理する加賀屋新田会所跡(加賀屋緑地)に示されています。加賀屋緑地は加賀屋新田会所を公園として管理するために設けられました。残されている生活空間としての居宅と庭園からは、江戸時代の大阪の町衆の凛とした姿がうかがえるようです。

 加賀屋甚兵衛は1680年、現在の富田林の山本善右衛門の次男に生まれ、11歳の年に大阪淡路町の両替商加賀屋嘉右衛門の元に奉公に出ています。当時、両替商の大店は今橋・高麗橋に軒を連ねており、両替商加賀屋嘉右衛門の店は淡路町にあり、一筋あまり南になりますので、十人両替と呼ばれた大店ではないがそれに次ぐクラスの店舗なのでしょう。

 加賀屋甚兵衛は、1714年35歳で別家、即ち暖簾分けを許され、加賀屋甚兵衛として淡路町2丁目に両替商を開業しております。1728年45歳の年に最初の新田開発に関わります。開発の権利譲渡を受けて北島新田の開発に挑戦しています。新田開発はリスクも多い代わりにリターンの大きい魅力的な投資案件であったことが窺えます。45歳の少壮実業家が取り組んだ投資案件であったと想像できます。背景には、加賀屋嘉右衛門が借財等により遺書を残し失踪し、本家が欠所となって没落しています。

 更に、18世紀初頭には、大和川の付け替え工事という大きな土木工事などが行われており、経済水準の向上が窺えます。16世紀末から18世紀初頭の約百年間でわが国の人口は倍増したといわれていますが、加賀屋甚兵衛が取り組んだ新田開発はまさに高度成長の真っ只中で取り組む、成長産業の中核とでも言うものでしょうか。もちろんリスクも大きく多くのチャレンジャーが消えて行ったことでしょう。特に新たな大和川流域ではたびたびの洪水により開発田には土砂が流れ込み、また河口域では高潮で多くの被害を被るなどのアクシデントにより、多くのチャレンジャーが開発田を手放していったようです。

 加賀屋甚兵衛は1744年65歳で、大和川河口域の新田開発に着手し1755年に完成。代官角倉与一より、加賀屋の名前を取って加賀屋新田と命名されました。加賀屋新田の完成です。しかし、甚兵衛は加賀屋新田を完成させるために、両替商をたたみ、更に北島新田も売り払い、加賀屋新田の完成に没頭しています。また、1754年に加賀屋新田の経営に専念するために居宅を設けました。これが現在の加賀屋新田会所の始まりです。

 加賀屋甚兵衛は1762年に83歳で没し、2代目加賀屋甚兵衛が同所で新田経営にあたります。2代目は次女てると養子縁組させた高井田村の田中利兵衛が継いでいます。2代目甚兵衛は新田の拡張を続けています。3代目甚兵衛の代に至り、新田が飛躍的に増加したといわれています。4代目甚兵衛も新田開発に精力的に取り組み、明治16年1883年に没しています。

 特に3代目4代目のころの新田開発により、住吉浦の景観は一変したといわれます。 住吉浦は入り江から住吉川となっています。その中心になるのが加賀屋新田会所であり、大阪の都市開発の中心であったといえます。その間の開拓総面積は、今日の大阪市域のほぼ1/3にあたるといわれます。古い建物が消失し歴史を顧みる手がかりの少ない大阪で数少ない空間ではないかと思います。